コラム

「4月25日 イタリア解放記念日② パルチザンの記憶」

karakimami

 前回の続き。

 今年、76回目のイタリア解放記念日は恒例の行列はなく、異世界みたいな違和感がありました。昨年はロックダウンで危機的状況の最中だったので大統領のメッセージの発表でイタリア解放記念日に寄せて国民に団結を呼びかけるだけの非常に寂しいものでしたから、それに比べれば今年は平和感が戻っています。さて、前回はムッソリーニのヘタレを中心に見ましたが、今回はまだ生存している元パルチザンのインタビュー記事を主に見てみましょう。

『ボローニャの元パルチザン“イタリアーノ”ことレナート・ロマニョーリ、

4月25日を語る』

 イタリアがナチ・ファシズムから解放された76回目の記念日、ボローニャ市は旧市街にある6つの記念碑の門それぞれに元パルチザンの大きな肖像画の垂れ幕を飾り付けた。男女各6人、合計12人のレジスタンスの中心人物たちのポートレートが風にはためく。「ボローニャの町を彼らパルチザンが抱きしめるように飾り付けました」とAnpi(Associazione Nazionali Partigiani d’Italiaイタリア・パルチザン全国協会)のアンナ・コッキ会長は説明した。  画家アントネッラ・チネッリによる12枚の肖像画のなかにレナート・ロマニューリがいる(ラモニョーリのポートレートはラーメ門に展示されている)。まさにここ11月7日広場(Pizza XII novembre)で、1944年のあの日レナート・ロマニューリはナチ・ファシズムの占領軍に対して前例のない復讐戦組織したという勇気と武勇で有名になった。非正規の第7武装団隊長レナート・ロマニューリは現在95歳、パルチザンたちの傍らで戦い始めたのは僅か16歳の時だった。その後まもなく1943年の大規模スト計画に加わったために逮捕された。

 ロマニューリの兵士名(訳注:パルチザンは各自あだ名で活動した)はイタリアーノ、ナチ・ファシズムとの戦いで決定的な役割を果たし、武功銀勲章を受章した。現在イタリアーノには子供も孫もいないが、70年前から幸せな結婚をしている。一部の人たちが戦争に例えるような今の私たちが生きる困難な時代に、彼のレジスタンスの経験を話してくれるように頼んだ。また彼の意見では、現在政府が国民に課している行動制限は広い意味で自由の剥奪のように考えられる、彼と武装団の仲間が76年前命懸けで戦った“自由”を語ってもらった。

 (レナート・ロマニューリへのインタビュー)

インタビュアー:なぜ兵士名にイタリアーノを選んだのですか?

ロマニューリ:偶然だ。「何て呼ばれたい?」と聞かれたのでとっさに「イタリアーノ」と口を突いて出た。これが気に入ってね。

インタビュアー:今でも時々イタリアーノと呼ばせていますか?

ロマニューリ:私はパルチザンの間ではイタリアーノと名乗っている。私達パルチザン同士では今でも当時の兵士名で呼び合っている。兵士名は私達を兄弟のように固く結びつけるからだ。

(ロマニューリはパルチザンが決定帝に劣勢に立たされたボロニィーナとラーメ門の戦いで際立った活躍をした)

ロマニューリ:あの戦闘で生き残ったのは17人中11人だったのに、朝になると私たちは“確実な死者”にカウントされたね。ナチ・ファシズム達は全部の地区を占領していった、家一軒ずつしらみつぶしにしてね。でも私達パルチザンを怖がっていた…(中略)

インタビュアー:あなたは何よりも大事な自由のために戦いましたね。あなたが命懸けで戦った偉大な“自由”を政府は奪っていると考えていますか?

ロマニューリ:“自由”は“自分勝手”ではない。“自由”というのは、何がともあれ各自がそれぞれの考えを自由に表現できる、ということだ。政治について自由に考え、自由に行動する。これが自由の基本的概念なのであり、自由は民主主義の最も美しい言葉だ。誰が支配者で誰が被支配者か、君が多数派に属するか少数派か属するか、そうではなく君が自由な人間でいるということこそが重要なのだ。自由な人間だからこそ、自分の考えやアイデアを好きなように表現して、仲間を集めて組織することができる。これが“自由”ということだ。自由な国とはこういうことで、この観点から言えば現在のイタリアは自由だ。

インタビュアー:もし子供や孫がいたら、彼らに何を最も伝えたいですか?

ロマニューリ:“参加する”、“誰かに任せるな”だね。つまり、一人の市民として行動する、他者を頼って待っていてはいけない。未来作りに参加する人間であれ。あとは能力次第で得られるもの多寡は大体決まってくる。行動したパルチザンは民衆や権力組織から高く支持されたことは言っておきたい。それは私達の行動の価値が今も評価されていることを意味する、たとえあれから長い歳月が過ぎたとしても。もっとも私たちは残り少ない、当たり前だけれどね。

                             (訳ここまで)

 もう一人の元パルチザン、ウーゴ・モルキも若くして反ナチ・ファシズム運動に参加しました。彼はすでに亡くなっていますが、生前のインタビュー記事を見てみましょう。

『“パルチザンになったのは皆が本を読めるようにしたかったから” ウーゴ・モルキ』

 ウーゴ・モルキは英雄ではなかった、本を読みたい少年だっただけ。そしてこのためにパルチザンになることを決めた。ガラス工場で初めて文学に出会ったのは12歳の時だった。それから数年たち仕事や政治に興味を持つようになったが、こうした話題は少人数で工場のトイレに行く間、互いに良く知っている者同士で声を潜めて話した。工場内にもファシストのスパイがいたからだ。  工場で一人の組合員がモルキに本をくれた、「白い牙」や「The Star Rover」の作者ジャック・ロンドンの本だった。こうした本もまた当時は禁止されていた、ジャック・ロンドンは過度に自由で、過度に社会主義者だったから。彼の本に社会主義は一度も登場しない上に、自由で冒険があるだけなのに。だが自由とは独裁政治にとって常に悪だ、だからファシズムはジャック・ロンドンを禁じた。こうして12歳の少年ウーゴ・モルキは朝3時か4時に家を出て自転車で工場に働きに行き、文学に恋し、反ファシストになった。

 ウーゴ・モルキが働かざるを得なくなったのは、父が一度もファシズムに同調せず、従って働き口が見つからなかったからだ。

 私(インタビュアー)がウーゴ・モルキに会ったのは3年前だが、今日まで彼のインタビューを大事にとっておいた、貴重なものを保存しておくようなものだね、外に出したら汚れてしまうようで怖かった。そうこうする間にモルキは雲の上で戦うために妻エヴェリーナと共に行ってしまった。インタビュアーの最中、二人の最後のキスがあった、でもエヴェリーナはあの日私の前でキスするのを恥ずかしがっていたと思う。(中略)

 3年前彼がインタビューを受け入れた理由は、「忘れ去られてはいけないから、たとえ彼が死のうとも」だからこのインタビューは彼への贈り物であり、私達への大いなる遺産なのだ。

 インタビューでモルキは「私たちは誰も殺さなかった、私達は妨害活動のプロだった」と語った。

 イタリア社会共和国主義者やソドムの共和国に忠実なカラビニエリから兵舎を解放するために兵舎を襲撃したときも殺さなかった。彼らの武装を解いて、“二度と顔を見せるな”と言ったらイタリア社会共和国主義者たちは逃げて行った。その時からモルキと仲間たちは兵舎を占領して、同盟軍到着2か月前に国を解放した。

                            (訳ここまで)

 今回は長いコラムになりました。当時のイタリアの雰囲気を感じ取っていただけましたか?今のイタリアからは考えられない時代があり、平和と自由はかけがえのないものだとしみじみ思わせられますね。

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