コラム

「マフィアの犠牲になった人たち①」

karakimami

 イタリアは15日月曜日から復活祭まで10州が赤地域(感染警戒度が最も高い地域のこと)、それ以外はオレンジ地域(感染警戒度が中程度)になり、赤地域では準ロックダウンに入りました。感染第3波と言われているように、現在24時間の感染者は2万人を超え、また重傷者も増えています。14日日曜日まで全土で警戒度が最も低い黄色だったので、大勢の人が“最後の自由な日”とばかりに外出し、至る所でしっかり密になったのでした…

 さて、一週間ほど前になりますがFanpage.itにあるマフィア絡みの事件が報道されました。この件についてカラビニエリが知ったのは2016年、そして実際に起きたのはもっと前なので真実を明らかにすることは難しいかもしれません。それでは、見てみましょう。 『ロッカメーナの鍾乳洞の謎:身元不明16体分の骨が見つかる、マフィアが関与か』

 2016年、パレルモのカラビニエリはシチリア州パレルモ県ロッカメーナの山頂にある鍾乳洞で複数の人骨を発見した:16体分の人骨でうち2人は子供だった。身元不明である。また情報源も秘密であることから謎は余計深まるが、地域のマフィアのボスが死んで3か月経ったので通報したという。鍾乳洞に死体があることは20年前からわかっていたそうだ。

 遺体とともに残っていたのは、ボーイスカウトのバックルと女性用の赤い靴。パレルモのカラビニエリが2016年10月に捜索したが謎は未だに解けていない。身元すら不明だ。マフィアの犠牲者の墓場なのか?今ではテルミニ・イメレーゼの検察が捜査を引き継いでいる。 この件を担当する病理解剖専門医によると、骨と頭蓋骨は1930年代~1970年代のものと特定した。DNAを抽出してロッカメーナとモンレアーレ地域の30年代~70年代までの行方不明者の血縁者と比較しても良い結果は得られなかった。人骨が発見されてから5年、今や未解決事件の棚にファイルは片付けられて終わりになるかもしれない。さらに厄介なことに、実際に通報者がこの件を発見したのは20年も前に遡ることだ。

 3か月前、この地のマフィアのボスが死んだことで、マフィア間抗争の犠牲者を葬った鍾乳洞の存在を隠しておく必要がなくなったのかもしれない。あくまでも仮定の話だ、身元も死因も特定できないないのだから知りようがない。ロッカメーナが接する3県(パレルモ、トラーパニ、アグリジェント)はマフィアの影響が濃い地域だが、もしかしたら地域外の人たちの白骨化した死体かもしれない。5年経った今でも謎だ。

                      (訳ここまで)  

イタリアにとって大変不名誉なことに世界中でマフィアという単語は有名で、映画「ゴッドファーザー」の影響も手伝って、そこはかとない魅力を感じる人もいます。Articolo 21によると思い違いの良い例が「マフィアは名誉を重んじる」とか「女子供には手を出さない」、「妻の名誉を重んじる」、「裏切らない」、「警察関係者が親類にいる場合はコーザ・ノストラに入れない」などで、すべて伝説以外の何物でもなく、「完璧なマフィア」の戒律は2007年に当局が押収したマフィアのボス、サルヴァトーレ・ロ・ピッコロのの書類から発見されました。暗黙の戒律とか昔からある鉄の掟ではなかったようですね。因みにマフィアの誕生は1800年代で、こうした犯罪組織が生まれた要因は様々ですが、その中に大地主が多くの小作人を過酷に使役して搾取したことがあることは確実です。不遇な環境に生きる人々が身を守るために結束したのがマフィアというイメージがあるのも無理からぬことですが、誕生当初からマフィアは“悪事で身を立てる”人たちの集まりだったことはしっかり覚えておきたいですね。Articolo 21の記事をもう少し見てみましょう。  

 マフィアの犠牲になった子供たちはイタリア全国で108人、新生児も含まれています。彼らは悪い時に悪い場所にいたため銃で殺された、あるいは豚の餌、もしくは酸で溶かされました。一番幼い犠牲者は生後58日の赤ちゃん、8歳の姉と共に1993年フィレンツェで爆発に巻き込まれました。別の6か月の赤ちゃんは1991年ターラントで母親の腕に抱かれていた状態で銃の一斉射撃の犠牲になりました。

 子供の犠牲者のイコンになったのがジュゼッペ・ディ・マッテオです。1993年11月23日13歳の時に誘拐され、パレルモ県サン・ジュゼッペ・イアートの田舎の古家の地下の穴倉に779日間監禁された挙句、絞め殺されて酸で溶かされました。ジュゼッペの父親サンティノ・ディ・マッテオはマフィアの一員でしたが、当地のマフィアのボスで逃亡犯のジョヴァンニ・ブルスカが関わった犯罪を警察にタレこんだのです。ジュゼッペはブルスカの命令で誘拐され、サンティノのもとに写真2枚と「Tappaci la bocca(口を塞げ)」と書かれたカードが送られてきたのが1993年11月29日でした。その後ジュゼッペは様々な場所に移されて監禁され続けましたが、ブルスカがサンティ(その他2人)の証言で有罪となった時、1996年1月11日殺されました。ブルスカが関わった事件は、イタリアのマフィア史の中でも一際悲劇的なものです。ブルスカの証言曰く「ジョヴァンニ・ファルコーネを殺したのは俺だ。けど初めてじゃない。ロッコ・キンニーチ判事と警備の奴らを殺すために爆弾を車に仕掛けたのが最初さ。チビのジュセッペ・ディ・マッテオの死も俺の責任だ。誘拐した時13歳、殺したときは15歳だった。他にも150件やった。今でも全部思い出せない。殺した奴らの名前とか一人ひとり覚えちゃいない。犠牲者は100人以上だ、200人には足りないな。絶対確かだよ。」2021年1月11日、ジュゼッペが最後まで監禁された穴倉が一般公開されました。今では穴倉の上に彼を追悼するための建物が建てられ“Giardino alla memoria(メモリアル・ガーデン)”になりました。マフィアの犯罪の犠牲者のための追悼施設ができるのは初めてのことです。

 「マフィアの犠牲になった人たち②」では女性のことを取り上げる予定です。

 では

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