コラム

「レオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザに関する新しい発見をいくつか」

karakimami

レオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザは大変有名なので、モナ・リザを知らなくとも絵を見たことがない人はいないでしょう。日本ではモナ・リザで知られていますが、イタリア語では Monna Lisa モンナ・リーザと言います。Monna というのは人名ではありません。ラテン語の Mea domina(意味は現代のマイ・レディー「我が淑女」とほぼ同じ)の派生語 Madonna(マドンナ)の縮小形です。ラ・ジョコンダのモデルである貴族商人の妻リーザ・ゲラルディーニに相応しい敬称といったところでしょうか。もっともイタリアではモンナ・リーザより La Gioconda という呼び名のほうが一般的です。発音はそのものずばり、ラ・ジョコンダですが、この名前の由来について多くの研究者は「Lisa Gherardini リーザ・ゲラルディーニはフィレンツェ貴族で絹織物商人の Francesco del Giocondo フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻だったので、Giocondo の女性形がこの油絵の通称になった」という説を支持しています。

余談ですがここで少しイタリア語の文法説明をします。イタリア語の名詞は女性形と男性形に分かれます。それぞれの違いは語尾のアルファベットで判断します。

-oであれば男性形名詞、例えば人名の Mario(マリオ)

-aであれば女性名詞、例えば 人名の Maria(マリア)

数は少ないですが-eで終わる名詞もあります。この場合は男女同形なので辞書を引いて男性形か女性形を確認しましょう、例えば giornale(新聞)。そしてそれぞれに複数形があるのは言うまでもありません。Laは女性形名詞に付く定冠詞、ここでなぜ定冠詞が敢えてつけられているかは話が長くなるので割愛します。イタリア語学習者は考えてみましょう。

-閑話休題-

とにかくこの文法のメカニズムを知ればモナ・リザがなぜ La Giocondaラ・ジョコンダと呼ばれるのかが納得ですね。

ラ・ジョコンダはポプラの木板に描かれた油絵で、推定製作年代は1503年~1506年、現在はパリのルーヴル美術館で見ることができます。女性をモデルにした1500年代の典型的な肖像画です。ダ・ヴィンチが1516年パリに拠点を移した時、絵も一緒に持って行きました。ラ・ジョコンダがパリに滞在するお礼として国王フランソワ一世に献上されたかどうか、あるいは他の作品も含めて単に売られたのか、正確には分かっていません。とにかくこれ以降現在に至るまでルネッサンスの至宝はフランスに鎮座することになりました。

現代では顔料を独自に調合するか市販の絵具を使って描いた後に仕上げにニスを塗りますが、昔はこうした材料の対象は今よりずっと広範囲でした。ボッティチェッリやレンブラントの秘密の調合の材料は卵の黄身でしたね。ドイツで行われ、Nature Communications 誌に掲載された研究結果によるとダ・ヴィンチも同じ手法を使いました。研究の筆頭著者である、ドイツのカールスル―エ工科大学のメカニカル・プロセス・エンジニアリング研究所の Ophélie Ranquet によると「この分野に関して資料は乏しく、科学的研究が行われたこと一度もなかったのです。私たちの研究結果から、少量の黄身でも絵の特性を長期間にわたって変化させること、芸術家たちはその事を認識して利用していたということが分かりました」と言います。これまで黄身のようなプロテインの存在は偶然付いた汚れだと思われてきましたが、Ranquet はミュンヘンのアルテ・ピナコテークにあるダ・ヴィンチの「カーネーションを持つ聖母」と、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館にあるボッティチェッリの「キリストの哀悼」に黄身の跡を見つけたことで、芸術家たちがその効果を認識して黄身をニスに混ぜていたことを確信したと言います。黄身を混ぜることで得られる効果は様々ですが、例えば湿気に対する耐性がグッと良くなるそうです。ピサ大学の分析化学教授マリア・ペルラ・コロンビーニが承認した、この新しい研究結果は絵画作品の修復や保存に役立つばかりでなく美術史を理解するうえでも非常に重要だそう。

ラ・ジョコンダに関して同じくもう一つ発見がありました。歴史家シルヴィオ・ヴィンチェーティがコーディネートした研究からラ・ジョコンダの背景にアレッツォにある史跡 Romito di Laterina

ロミト・ディ・ラテリーナ橋( il ponte Romito di Laterina )がモンナ・リーザの肩の上に描かれていることが分かったといいます。これまでこの橋に関して多くの説がありましたが、中でもピアチェンツァのボッビオに架かる中世の橋(悪魔の橋や古い橋とも呼ばれる)説やアレッツォの Ponte Buriano ブリアーノ橋説が最も話題になりました。今回ラ・ロッカ文化協会の協力を得て、正真正銘本物の橋を特定したということです。ヴィンチェーティ曰く「ダ・ヴィンチが描いた橋は、私たちの見解ではエトルリア・ローマ起源のロミトあるいはヴァッレ橋です。今ではアーチが一つ残るだけの史跡ですが、1501年から1503年当時橋は現役で、人の往来が激しかったことがフィレンツェの公文書館で見つかったメディチ家所有の建造物の状態を記述した書類に記載されていることから明らかです。ちょうどこの時期ダ・ヴィンチはフィレンツェ近郊のヴァルダルノにいました。チェーザレ・ボルジアに仕える前ですね、ダ・ヴィンチはその後フィレンツェ共和国の行政長官ピエール・ソデリーニに仕えるのです。」さらに「ボッビオの橋のアーチは6つ以上あり、ブリアーノの橋は同様に6つ。さらにこれらの橋は平坦な地に建っています。ロミト橋とその地域のアルノー川の特殊な形態は、ラ・ジョコンダの左側に描かれた風景は様々な点で一致します。これが分かったのはドローン技術のおかげです。ドローンで撮影したロミト橋の左右両側に断崖があること、曲がりくねったアルノー川の様子がはっきり分かりました。まさにラ・ジョコンダの風景そのままだったのです。」そしてロミト橋がある地域のアルノー川の長さを基に再現したヴァーチャル・ロミト橋はラ・ジョコンダの橋と非常に良く似ていて、さらに4つのアーツの大きさや形も同様だと言います。そして「今回の発見は意味があります。当時ダ・ヴィンチがフィエーゾレにいたアマードリもしくはアマードロという名の叔父(司祭)のもとに頻繁に滞在していたらしいことを証明する歴史的資料でもあるのです」と締めくくりました。

フィレンツェといえばヴェネツィアと並んで“何でも記録がある”ので知られています。昔は国や地域によっては記録が重要視されなかったり、なくなってしまったりが多いのですが、フィレンツェやヴェネツィアはその点ずば抜けて素晴らしいのです。現代の行政府のほうがだらしないくらい、昔の人はきっちり記録して残しました。それほど恵まれた状況であってもダ・ヴィンチの足跡を全部把握することは難しいのですね。

では

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