コラム

イタリアの植民地だったリビア

karakimami

先日のツィートでリビアに残っていた最後のEU加盟国の大使館が閉じられたと報じましたが、 イタリアの大使館がなぜ最後まで残っていたのか、疑問に思われた方も多いでしょう。

イタリア人が自国に帰国するにあたって CORRIERE DELLA SERA 紙は映像を交えて以下のように報じました。

「リビアの首都トリポリ、そこは『麗しい愛の地』だが同時に『不毛な砂漠の地』でもある。イタリアとリビアの関係は緊密だった。近代の一世紀にわたって、しばしば非人道的な植民地支配と両国にとって有益な政治・経済の協力関係の間で、緊密な関係の礎が築かれたである。1940年代には、12万人以上のイタリア人がリビアに入植した。」

実はリビアは1934年から1943年までイタリアの植民地でした。

イタリア王国の植民地政策( impero coloniale )は1882年、エリトリアのアッサブ(エリトリアの港湾都市)を占領したことを皮切りにアフリカの4カ国(リビア、ソマリア、エチオペア、エリトリア)、ドデカネス諸島(エーゲ海東南部に位置するギリシア領の島々)、アルバニアに及びました。またアジアでは中国の天津に小さな租界地がありました。

公式には植民地帝国は1936年5月9日ヴィットリオ・エマヌエレ三世のエチオピアの皇帝に就任したことが始まりとされています。

その後、イタリアは第二次世界大戦で植民地全てを失いましたが、ソマリア( Somalia italiana イタリア領ソマリランド)は1960年までイタリアの信託統治下(イタリア信託統治領ソマリア)にありました。

ちなみに数千のイタリア人がリビアに入植した当時のイタリア王国首相はムッソリーニでした。彼が首相就任時、アラブ人との戦争にイタリア王国は勝利し、またイタロ・バルボ(1896-1940 国家ファシスト党の将軍、政治家、飛行家)が1934年にリビアの統治を任されてから後もイタリア人入植者は増え続け、1940年にはその数は12万人に達しました。

イギリスとイタリア人入植者間で戦争が勃発した時、戦いはリビア海岸地域に集中し、特にバルボが築いた農村地帯が戦場になりました。一方トリポリやベンガジではイタリア人は最大勢力を誇っていました。

第二次世界大戦でイタリア植民地下のリビアは荒廃し、イタリア人入植者たちは大量に所有地を手放さざるをえませんでした。とりわけ1940年代後半にこの傾向は顕著になりました。 こうしてイタリア人入植者たちは出て行きましたが、現在でも2万人以上のイタリア人がリビアに在住し、その大部分は石油産業の専門職に従事しています。

リビア・アラブ共和国(大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国)のムアンマル・アル=カッザーフィー(カザフィ大佐)とイタリアとの関係は当初は難しいものでした。問題の核心は1970年にイタリア人やイタリア企業に奪われた資産と、戦争と植民地支配によって蒙った損害賠償に関係していました。

1986年トリポリとベンガジをアメリカが攻撃した報復にシチリアのランペドゥーサがリビアから砲撃を受けたため、両国間の状況は緊迫しました。

1998年7月4日ローマで両国が「 Comunicato congiunto Dini- Mountasser」に署名し、徐々に関係は改善しました。「 Comunicato congiunto Dini- Mountasser」をもって、イタリア政府がイタリアに連れて行かれたリビア人家族を探すこと、地雷撤去の援助、戦争と植民地支配によって損害を受けたリビア人への賠償といった一連の方策をとる事を強く促し、またより具体的にイタリアとリビアの合弁事業・産業を推し進めるもので、それは常にリビアがイタリアに求めていた実質的な賠償でした。

この共同調印から始まって、2008年ベルルスコーニ政権時にベンガジにおいて友好共同条約( Trattato di Amicizia e Cooperazione )の約定にいたるまで両国の関係は良好に推移していました。

2011年リビア内戦までカダフィ統治下のリビアはイタリアにとってアフリカ北部の同盟国であり、ガスや石油の供給国だったのです。い

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