Accademia Italiana

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唐木 麻美 )

「国に戦争を仕掛けた男 Totò Riinaトト・リイナ」

2017年11月17日3時37分、昏睡状態になって5日、Totò (Salvatore) Riinaトト(サルヴァトーレ)・リイナはパルマの病院で亡くなりました。イタリアでは彼の死でマフィアの一つの時代が終わったと言われています。彼の死が報じられた後、間もなく教会は葬儀を執り行わない旨を発表しました。彼は神に見放された男ということでしょうか、娘は口元に指をあてた写真を公表し、そこには「私にとってはマフィアのボスではなく一人の父だ」とコメントが付けられていました。彼は多くの謎を墓場まで持っていったと言われていますが、イタリアではこのようなことは実に多いのです。

さてAnsa通信の記事に彼の生涯が短く語られていたので、今回はそれをご紹介しましょう。

『国に戦争を仕掛けた男 Totò Riinaトト・リイナ』

コルレオーネの殺人、虐殺、権力に昇りつめた男

リイナが刑務所に最初に入ったのは18歳を少し過ぎた年だ。口論の最中に同年代の少年を殺して12年の刑に処されるという早熟の犯罪&重罪の“洗礼”だった。リイナは1230年11月16日コルレオーネ(訳注:パレルモ県の地方自治体)の農家の家に生まれ(幼くして不発弾から火薬を取り出そうとした父と兄弟が死んだ)、2017年11月17日の深夜パルマの刑務所の監禁所で死んだ。その時もまだ幾つかの窃盗罪を背負っていた。

リイナが前途を開くと決めた隆盛を極めたマフィアの時代、Luciano Leggioルチャーノ・レッジョに出会うまでは小物だった。巡査部長が間違って記載したせいで歴史にはルチャーノ・リッジョの名で残ることになったこの同郷人こそがリイナをCosa nostraコーザ・ノストラに入れた男だ。身長1m58㎝、リイナにはTotò U Curtuというあだ名が相応しい。このあだ名は1956年Ucciardoneウッチャルドーネ(訳注:パレルモの刑務所)に由来する。ここで彼は減刑されてレッジョの銃撃犯グループに入隊し、背後に長い血の筋を残した。

ルチェネッドゥ(ルチャーノ)と仲間のための権力闘争は1958年Michele Navarraミケーレ・ナヴァッラ(コルレオーネのボスで医者)を排除する事から始まった。レッジョは彼のクランを解体し、その地位を奪った。リイナは彼の副官に昇格した。グループ内にもう一人別の同郷人Bernardo Provenzanoベルナルド・プロヴェンツァーノがいた。1963年リイナは盗まれた身分証と拳銃を所持していたとして名前をアグリジェント県の憲兵隊(カラビニエーリ)のパトロール隊によって記されている。1969年証拠不十分により無罪放免になった後で、そこを離れるためにウッチャルドーネに戻った。シチリアを離れることを余儀なくされた期間を除き、リイナは島に留まり20年間に及ぶ逃亡生活を選んだ。

敵を組織的に排除することから始まった容疑者生活:

1969年プロヴェンツァーノと信義を誓った仲間たちと共にMichele Cavataioミケーレ・カヴァタイオと配下の若者たちを機関銃で殺した、新聞記事はこれにラツィオ大通りの虐殺という見出しを付けた。2年後、彼自身がパレルモ検察のPietro Scaglioneピエトロ・スカリオーネに銃を向けた。コーザ・ノストラで権力に昇りつめるために犯した犯罪は100件以上の殺人事件と見積もられ(その内26件で終身刑になった)とどまることを知らなかった。主要な政治犯罪も同様な手口で進められた:dc(キリスト教民主党1942年~1994年)の前総裁Michele Reinaミケーレ・レイナと州知事Piersanti Mattarellaピエールサンティ・マッタレッラを暗殺した。レッジョ逮捕後リイナはStefano Bontateステファノ・ボンターテとTano Badalamentiターノ・バダラメンティと共にマフィア三頭政治の一角を占めた。後にBadalamentiバダラメンティにカルタニセッタのマフィアのボス殺害という濡れ衣を着せて追放したとされる。だが1980年代にはリイナと仲間、粗野で教養のないごろつき、地元のマフィアに戦いを挑んだコルレオーネの百姓たちの役割が明白になった。金と麻薬の川、土木関係の取引と請負。白い銃弾(暗殺した死体を隠すマフィアの殺しの手口を指すジャーナリスト用語)と人目を引く殺人事件の衝撃で権力を掌握した。

1981年4月23日Stefano Bontandeステファノ・ボンタンデ通称“ヴィッラグラツィアの王子”死んだのは第2次マフィア戦争だった。ボンタンデBontandeはダブルの背広を着て街の上流階級のサロンに出入りし、パレルモのコーザ・ノストラの密売を監督していた。彼は自分の誕生日に自分の王国で惨殺された。18日後、彼の仲間Totuccio Inzerilloトトゥッチョ・インツェリッロにお鉢が回り、続いて息子、兄弟が殺された。生き残った親族はアメリカに逃げ、シチリアに二度と戻らないという約束と引き換えに助かった。わずか数週間で数十体の死体が地面に転がった。リイナと通じていた政治家Vito Ciamciminoヴィート・チャンチミーノ(大量の建物を建てたパレルモのマフィア系前市長)が呼んだ野獣リイナは残酷で情け容赦なかった。

最大裁判の間にリイナは欠席裁判で終身刑を言い渡され、 最高序列に位置するTommaso Buscettaトンマーゾ・ブシェッタの密告で拘束された。 Totò “u curto” トト・ウ・クルトはTommasoトンマーゾの親族11人を殺して彼に復讐した。

最大裁判が最終に差し掛かった時、名誉の男たちと呼ばれる彼の仲間に終身刑が続々と言い渡され始め、リイナは国へ戦争を仕掛けると宣言した。最大裁判の責任者Falconeファルコーネ判事とBorsellinoボルセッリーノ司法官のような歴史的に有名な敵や裏切者を刑に処する一種の最後の審判。排除されなければならない者達のリストは長く、リイナの考えでは約束を遵守しない政治家もそこに含まれていた。虐殺の季節、コーザ・ノストラのメンバー全員が必ずしも賛成していないにも関わらずボスの中のボスが望んだもの。

1992年3月12日、シチリアのアンドレオッティの地方総督Salvo Limaサルヴォ・リーマが死に、続いて5月23日Giovanni Falconeジョバンニ・ファルコーネ、7月19日Paolo Bprsellinoパオロ・ボルセッリーノ(詳細は同コラム「ファルコーネ判事に追悼を」参照)。だがリイナには数カ月の自由しか残されていなかった、1993年1月15日憲兵隊(カラビニエーリ)の特捜班(Ros)が24年間逃亡していたリイナを逮捕した。彼と生涯連れ添った妻Ninetta Bagarellaニネッタ・バガレッラは、パレルモでも屈指の市立病院で生まれた4人の子供Luciaルチア、Concettaコンチェッタ、Giovanniジョヴァンニ、Giuseppe Salvatoreジュセッペ・サルヴァトーレを連れてコルレオーネに戻った。

逃亡生活の最後の時期、一家はマフィア系実業家Sansoneサンソーネの幹線道路にほど近い屋敷に滞在した。憲兵隊は家から少し離れたところでリイナを逮捕した、彼の逮捕には多くの不可解な点が残されている。公式説明ではかつての忠臣Baldassare Di Maggioバルダッサーレ・ディ・マッジョが彼を引き渡したとなっている、この人物はリイナとAndreottiアンドレオッティの接触を語ったと推測される転向者(減刑と引き換えに警察や検察に協力する元マフィア)だ。

とはいえボスの中のボスの逮捕には重苦しい闇がのしかかっている。2012年からリイナが少なくとも初期には何らかの役割を担ったと思われるマフィア王国を巡って起訴している司法官自身が概要を述べている。同郷人で生涯の友ベルナルド・プロヴェンツァーノBernardo Provenzano、複数の転向者曰くより慎重で国に挑戦することに真っ向から反対していた男が刑事免責と引き換えにリイナを憲兵隊に売ったという。リイナの死と共に答えのない多くの疑問-政治とマフィアの関係、虐殺の季節に関する疑問、いわゆる見事な犯罪と呼ばれるものに関する疑問、緊迫の共通戦略のなかでコーザ・ノストラが闇の権力と組んだ陰謀-が残された。リイナは決してどんな贖罪の徴も見せなかった。検察に召喚された裁判では最後の最後まで沈黙を貫いた。

                                (訳ここまで)

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