コラム

「2月7日、サンレモ音楽祭2023が始まります!」

karakimami

 2月7日(2月7日~11日)からサンレモ音楽祭2023が始まります。イタリアでは世代問わず国民的音楽の祭典で前年12月から様々なニュースが流れるのも恒例行事、今やヨーロッパ中で放送されます。実に楽しいお祭りですが、日本ではサンレモ音楽祭への興味は一部の高齢世代に偏っているように思います。かくいう私も無知ゆえにサンレモ音楽祭に対してある種の偏見を抱いていました。贖罪の意味を込めて、ここであらためてサンレモ音楽祭と日本の関係やサンレモ音楽祭の成り立ちを見てみましょう。

サンレモ音楽祭はいかにして誕生したのか?

「1948年と1949年にヴィアレッジョで開催されたイタリア音楽フェスがサンレモ音楽祭の前身である。ジャーナリスト兼作詞・作曲家アルド・ヴァッレローニの発案だが経済的問題が原因で継続することはできなかった。第1回目の優勝者はピーノ・マスキーニの「Serenata al primo amore」、第2回目の優勝者はナルチーゾ・パリージの「Il topo di campagna」だった。

 2年後、ヴァカンス・シーズンが終わると観光客が去ってしまうオフシーズンを盛り上げるために、リグーリア州のサンレモ市がイタリア音楽フェスというアイデアを引き継いだ。サンレモのカジノが全面協力し、カジノの顧客だったラジオ・パーソナリティのアンジェロ・ニッツァを司会者に迎えて音楽に特化したフェスティバルを作ることになった。ニッツァの協力を得てトリノのラジオ業界と協約が決まる一方、カジノの理事アマートはミラノの音楽業界でカジノが抱える歌手のプロモーションをした。こうして1951年1月29日、カジノにて第1回サンレモ音楽祭が開催された。司会はヌンツィオ・フィロガモ、冒頭の挨拶「amici vicini e lontani」(遠くの友の近くの友も)」は話題になったもののメディアや音楽評論家からは冷たくあしらわれてしまった。最初の優勝者はニッラ・ピッツィの「Grazie dei fiori」だった。第2回目の音楽は大きく様変わりし、音楽出版社や作詞・作曲家から大反響を得た。参加者も5名と増えたものの、ニッラ・ピッツィの「Vola colomba」が再び優勝した。イタリアの伝統音楽が好まれる時代だった。

 60年代に入りSIAE(イタリア作家・出版社協会)が協会員に音楽祭への参加を禁止したが、ほとんど無視された。この頃、現在でも活躍中の大歌手ミーナはサンレモ音楽祭で表彰台を逃したことに深く失望し、以来2度と参加することはない。この時代はメロディアスな曲が好まれた。

 70年代にルーチォ・ダッラの「4/3/1943」(1971年優勝)、「Piazza Grande」(1972年優勝)や、ロベルト・ベッキオーニの「L’uomo che si gioca il cielo a dadi」(1973年)が大きな話題になったものの、デモの影響により斜陽期へ。国営放送Raiはサンレモ音楽祭の最終日のみ放映するようになった。

 80年代、衰退期に試行錯誤した努力が実を結び、キャリア歌手が競う通称Big部門と新人部門が設けられ、再びRaiから信用されるように。1986年には初めて女性がメイン司会者になったが、70年代活躍した大物歌手は距離を置き特別ゲストや作家部門で競うことを好んだ。この時代様々なジャンルや世代の歌手が活躍した。

 80年代に復活し現在の形式に近くなる。その後成功の90年代、変革の2000年代、再び流行の2010年代、2020年代は再び成功…と紆余曲折の歴史がある」

(イタリア版Wikiより要約)

サンレモ音楽祭の優勝者に関して、初期を除いてあまりにも多岐にわたっているのでここでは触れられず申し訳ありません。

 さてここまでサンレモ音楽祭の誕生と簡単な歴史を見てきましたが、日本とはどんな関係があるのでしょう?まずは、サンレモ市は熱海市と姉妹都市の関係上日本でサンレモ音楽祭に対する盛り上がりは熱海が中心でした。もっとも最近では日本ではなく中国でイタリア音楽への嗜好が高まりを見せています。イタリアもしっかりその動向を把握しているので、第73回ではイタリア音楽とイタリア語の音楽コンクールが北京で行われました。また日本人歌手 伊藤ゆかりが1965年日本人として初めてサンレモ音楽祭に出場、ベッペ・カルディーレと組んで歌った曲は「L’amore è partito」、次にブルーノ・フィリッピーニと組んだ歌は「L‘amore ha i tuoi occhi」で後者は2位(2位相当に選ばれた11曲の一つ)になりました(この時代1位は1曲のみ、2位は複数曲、3位以降はないという形式でした)。また岸洋子が1968年のサンレモ音楽祭に出場しています。アンナリータ・スピナーチと組んで歌った曲は「Stanotte sentirai una canzone」で12位でした。日本では1960年代が、カンツォーネが盛り上がった時代のようです。

 最後にイタリア人に愛され続けている曲はどれか分かりますか?いくつかありますが、もし分かったらイタリア音楽通ですね。とても有名なそれは1958年フランコ・ミリアッチとドメニコ・モドゥーニョ作詞・作曲「Blu, nel dipinto di blu」(別名Volare)です。1958年のサンレモ音楽祭で初めて歌われて以来イタリアで最も愛されている曲になり、ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト1958にも出場し3位になりました。フランコ・ミリアッチ曰く「人生で最も傷ついて辛い日に悪夢を見たことがきっかけで詞を書いた」とか。「Blu, nel dipinto di blu」を英語で言うと「A dream come true」なので悪夢の厄払い的な意味を込めて生まれた歌詞のようですね。思わず口ずさみたくなる明るさにあふれた曲はイタリアの太陽を思わせます。新型コロナで外出規制の際もベランダやバルコニーで歌われていました。

 さて明日から始まる2023年のイタリア最大の音楽フェスで優勝する曲はどれでしょうか。実に楽しみです。

では

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