Accademia Italiana

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唐木 麻美 )

「イタリアをテロが覆った暗い時代Anni di piombo」

前回のコラムでAnni di piomboという言葉がありました。これについて幾つか質問があったので今回はAnni di piombo(鉛の時代)について説明したいと思います。

イタリアの学校の授業ではAnni di piomboは大体以下のように説明されます。

「Anni di piomboという言葉は通常イタリア史の中で政治的革命を目論むグループの武装化とテロリズムの拡大に彩られた時期を意味し、1970年~1980年代にまたがっている。イタリア史上最も困難な時代の一つで、恐怖と血の波がイタリアを覆った。

1950年~60年代にかけてイタリアは戦後の荒廃を乗り越えて経済的に大きく飛躍した時期で、1960年代の終わりにはイタリアも学生運動の影響を受けた。1968年大学占拠と広場での大規模なデモは政府の軍や警察との暴力的な対立を引き起こし、1969年の終わりには最も緊張が高まった。

いわゆる“autunno caldo”(熱い秋)と呼ばれ、労働者たちもまた学生たちの抗議活動に加わり自分たちの権利を強く主張し始めた。同年、初めて政治的テロが明らかに現れた。12月12日ミラノのフォンターナ広場に位置するBanca Nazionale dell’Agricoltura(全国農業銀行)の本店を破壊した瞬間は最も悲しく衝撃的な事だった。この暴行のバランスシートは死者18人、負傷者88人だった。警察は国家組織内の関係者や諜報員と接触し、捜査範囲を広げた結果、極右たちを疑うようになった。これは“緊迫の駆け引き”と称され、すなわち権威的な転換を誇示するために世論に恐怖と不安を広めつつ民主主義制度を不安定にするように仕向けるテロ計画のことだった。

こうして政治的過激派は武装闘争と暴力的行動主義へと姿を変え、物議をかもす活動のみならず無関係な標的を狙った小さな攻撃も行った。このため政府や世論にも思想が異なる過激主義者同士の闘争という印象が生まれた。“黒いテロ”(ファシストを信奉する組織のこと)は1969年のフォンターナ広場の襲撃の犯人だと考えられている。この襲撃の狙いは学生や労働者の政治運動の流れに乗ってイタリアの政治社会の方向が左に向く可能性を阻止するためだったと思われる。通常“黒いテロ”は恐怖や不安を生み出すことを意図して人が多い公共の場所での襲撃を計画し、かくして人々は強く、厳しく、秩序を取り戻す能力を備えて、民主制の自由を認めない政府を志向するように後押しすることが目的だった。

非合法な存在になる事と武装闘争という選択は多くのイタリア人にとって組織の腐敗や政府の無気力に立ち向かう唯一の方法のように思われた。“黒いテロ”に対立する“赤いテロ”(共産主義に感化されたグループ)は個別の対象や労働者階級の敵を体現する模範的人物にある種の特権を与えた。

最初の、そして最も有名な武装グループはBrigate Rosse(赤い旅団)で1974年から印象的な一連の爆弾テロと示威行動を行った。赤い旅団後の“赤いテロ”の各グループで最も重要な位置にいたのがNuclei Armati Proletari(NAP)、Prima Linea(PL)、Comitati Comunisti Rivolzionari(Co. Co. Ri)、Gruppi d’Azione Partigiana(GAP)、Proletari Armati per il Comunismo(PAC)などその他多数。

一方“黒いテロ”で最も活動的な核心派にはAvanguardia Nazionale、Terza Posizione、Nuclei Armati Rivolzionari(NAR)、Ordine Nuovo、Ordine Neroがある。

この時期、赤い旅団はイタリア史上最も衝撃的で物議をかもした一撃を放った:Aldo Moroアルド・モーロの誘拐と殺害。表明された目標は国家の心臓を射ることだった。議会でジュリオ・アンドレオッティの新政府が紹介された1978年3月16日、アルド・モーロは誘拐され護衛兵たちは殺された。

モーロ誘拐によって釈放するか否かを論じる政府の決定を巡って激しい議論が始まった。DC党、PCI党、世俗派の諸党が指揮するFermezzaグループ(強硬派)はPSIや左翼の小集団で形成された折衝グループと対立した。52日後、赤い旅団の指示に通りにモーロの遺体がローマの中心街の通りで見つかった。

モーロ殺害事件は疑いもなく赤い旅団のメンバーの活動の頂点を現していた。だが1980年はテロによる死者数が最も多く記録された年だった。1980年8月2日のボローニャ駅での爆弾事件(死者85人、負傷者200人以上)は偶然ではない。司法官はNAR(Nuclei Armati Rivolzionari)のメンバー複数が犯人だと突き止めた。今日、爆弾事件の象徴は駅の時計である。修理された後、あの忌まわしい日の10時25分を指し続けている。

                        訳ここまで

(この時期に起こったテロ事件の数はあまりにも多いため、ここでは代表的な事件しか言及されていません。尚、赤い旅団のモーロ暗殺事件に関しては映画化されましたが、デジタル化されたかどうかは不明です。その他この時代のドキュメンタリーも幾つかあると思いますが、どの程度デジタル化されたかなど詳細は不明です。)

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