コラム

9月20日とイタリア統一運動 ①

karakimami

「9月20日とイタリア統一運動①」

 

イタリアの街々を旅していると XX Settembre と名前が付いた通りを良く見かけます。通りの名前に日付が付いているなんて興味深い、きっと何かの記念日にちがいない、と思う方もいるでしょう。

 

イタリアでは9月20日は Presa di Roma (ローマ攻略)あるいは Breccia di Porta Pia (ピア門の裂け目)という名称で知られています。

 

1870年9月20日、ピア門の割れ目から入り込んだイタリア王国軍はローマを攻略し、同時にヴァチカンのローマ法王の世俗権と教皇領を廃止する布告を発布しました。ローマはイタリア王国に併合され、新しい王国の首都として生まれ変わりました。

 

同時代のイタリア愛国主義者で政治家のCamillo Benso カミッロ・ベンソ[i]の演説は当時のイタリアの初々しくも誇り高い心意気を反映しているようです。

 

「La nostra stella, o Signori, ve lo dichiaro apertamente, è di fare che la città eterna, sulla quale 25 secoli hanno accumulato ogni genere di gloria, diventi la splendida capitale del Regno italico.

私たちの希望である皆さん、25世紀もの長い間あらゆる栄光を積み重ねてきたこの永遠の都は、イタリア王国の輝かしい首都になることをいまここで私はあなた方に宣言します。」(筆者訳)

 

ベンソは通称 Cavour カヴール、 Cellarengo チェッラレンゴ、 Isolabella イーゾラベッラ領の伯爵ですが、 Cavour伯爵あるいはCavourと呼ばれ、ガリバルディ[ii]やマッツィーニ[iii]と並び称されるイタリア統一運動の立役者の一人です。

 

Risorgimento リソルジメント(イタリア統一運動)という言葉は多くの日本人にとって耳慣れたものではないかもしれません。イタリア統一運動は19世紀に起こった社会的・政治的な運動のことです。ルネッサンスという豪華絢爛たる時代が過ぎ去った後、イタリア半島はヨーロッパの主役の座から滑り落ち、半島内で覇を競っていた都市国家から発展した小さな国々はスペインやフランス、オーストリアといった絶対王政治下で国力を蓄えた国々の傀儡君主によって支配される、あるいは属州になりました。しかし18世紀末にナポレオンに征服され様々な改革がされたことがきっかけになり、イタリア人の間に一つの国という認識が広がっていきました。当初は啓蒙主義にふれた知識人、貴族、富豪といった限られた人々の間で取り沙汰されていたのですが、より一般的に多くの人々がイタリアという一つの国を意識し始めたのです。またナポリで見つかった当時の文献からフランスの影響が強かったことが伺えます。

 

イタリアの三色の国旗、最初はナポレオンが中北部イタリアに作った共和国で使用されていた旗に過ぎないのですが、その後イタリアの国旗に大抜擢されたのです。また「イタリア」という国名が刻まれた最初の硬貨もナポレオンの時代です。これは、ピエモンテ共和国がピエモンテ州マレンゴでオーストリア軍と戦い勝利を収めた「マレンゴの戦い」を記念して1801年鋳造したナポレオンの20フラン金貨で、 “L'Italie délivrée à Marengo (イタリア語では L'Italia liberata a Marengo となり「マレンゴで解放されたイタリア」という意味” と記されています。

 

ヴェネツィア共和国にとってはまったく良いことがなかった[iv]ナポレオンのイタリア侵略ですが、イタリアという国の誕生に大きく寄与したことは間違いありません。こうして自由主義や啓蒙主義は一般の人々、特に富裕な市民層に浸透していきました。1765年、定期刊行誌「Il Caffè[v]2号に載った Gian Rinaldo Carli ジャン・リナルド・カルリ[vi]の記事は次のような文章で締め括られています:「Un italiano in Italia non è mai forestiero イタリアにいるイタリア人が異邦人であることなど決してあってはならない」(筆者訳)

 

傑出した将軍であり統治者であったナポレオンも1814年に皇帝を退位させられ、エルバ島に押し込められてしまいます。その後のナポレオンの百日天下と再失脚、そして暗殺説が今なお根強く囁かれる死は1821年のことでした。

 

ここでナポレオン失脚前のイタリアの状況を振り返って見ましょう。

〔北部〕 オーストリアから奪還したヴェネト、イストリア、ダルマツィアを含めたアドリア海東部は Regno d’Italia イタリア王国(ナポレオンの継子ウジェーヌ・ド・ボアルネが副王)

〔中部〕 ラツィオとトスカーナはナポレオンの直轄領。法王はあらゆる権力を取り上げられ、パリでナポレオンの皇帝戴冠式に列席しなければなりませんでした。

〔南部〕 ナポレオンはブルボン王朝を廃止し弟 Giuseppe ジュセッペを王に据えました。

シチリアとサルデニアはそれぞれブルボン王家とサヴォイア家のもとに留まりましたが、独立を保ったとはいえフランスの影響下にありました。

 

1815年のウィーン会議でイタリアは20年前の小さな国に分かれたモザイク状態に戻されることになりました。ウィーン会議の目的はナポレオン以前の状態に世界を戻すことにありましたが、富裕層や若い貴族たちの間に新しい自由主義思想が浸透していたイタリアにとってこれは徹底承服できるものではなかったのです。革命を予感させるピンと張り詰めた空気の中、その後の30年間が過ぎていきました。

 

当時の政治の主役は二人、前述の Mazzini マッツィーニと Vincenzo Gioberti ヴィンチェンツィオ・ジオベルティ[vii]です。マッツィーニは啓蒙主義風の自由主義に反発し、教会や圧制から独立するために民衆の教育に力を注ぎました。「考え、行動すること」が彼の信条で有能な行政者であり革命の強力なリーダーでした。一方ジオベルティはずっと保守的で暴力的な革命に反対し、カトリック的自由主義を信奉していました。彼は「外国の勢力をイタリアから排除し、イタリア国内の各小国は互いに争うのではなく、法王を盟主として同盟を作る」というものでしたが、イタリア統一とはあまりにもかけ離れたアイデアだったので、最終的にイタリアはマッツィーニのイタリア統一の道を選びました。

 

イタリア現代史でお馴染みの carboneria カルボネリアはこの頃結成された秘密結社です。カルボネリアは南部でフランス革命家が作ったもののようですが、1820年代にはイタリア各地に広まりました。カルボネリアという名前の由来は、革命家たちが石炭( carbone とイタリア語で言います)売りのような黒いマントを羽織って夜の暗闇に身を隠し、「 carbone 」の言葉を合図にして行動していたからです。また30年代にはイタリア独立と統一を目標に反乱を起こすために民衆を教育を目的とした Giovine Italia (青年イタリア)秘密結社がマッツィーニによって結成されました。人々は自分たちの王と市民の義務と権利を定めた憲法を求めていました。紆余曲折を経て各地で憲法が受け入れられ、教会においてさえも認められたのですが、フランスの介入により全て水泡に帰してしまいました。革命運動は1844年まで続けられましたが、決定的な政治的ビジョンが欠けていたために失敗したのです。

 

長くなるので続きは②に移ります。



[i] Camillo Bensoは正式名称Camillo Paolo Filippo Giulio Benso カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソで、トリノに1810年8月10日に生まれ、1861年6月6日同市にて没した。Isolabella、Cellarengo、Cavourの領地はピエモンテ州とトリノ州にある。

[ii] Giuseppe Garibaldi ジュセッペ・ガリバルディ(1807年ニース生 –1882年カプレーラ没)イタリアの愛国主義者、軍人、イタリア統一運動の英雄

[iii] Giuseppe Mazzini ジュセッペ・マッツィーニ(1805年ジェノヴァ生–1872年ピサ没)イタリアの愛国主義者、新聞記者、哲学者、政治家

[iv] 往時の面影の見る影もないほど衰退していたとはいえ8世紀初頭の建国以来、連綿と続いたヴェネツィア共和国は、1797年10月18日 Trattato di Campoformio カンポフォルミオ条約の調印を以って千年の歴史に幕を閉じた

[v] 「Il Caffè」は1764年~1766年まで続いた啓蒙主義の定期刊行誌

[vi] Gian Rinaldo Carli (1720年カポディストリア生‐1795年ミラノ没) イストリア出身の作家、経済学者、歴史家、イタリア貨幣の研究家

[vii] Vincenzo Gioberti (1801年トリノ生 –1852年パリ没)カトリック司祭、政治家、哲学者、サルデニア王国下院議長

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