Accademia Italiana

本格的に学びたい方のためのイタリア語教室。アカデミア イタリアーナ

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唐木 麻美 )

ローマ時代の子供たち

5月5日はこどもの日、

子供の順調な成長を願って祝う日です。イタリアにはこどもの日はありませんが、日本と同じように「子供は宝物」として大事にします。

さて、博物館をぶらぶらしていると、今に残されている古代ローマの子供の彫像を見つけました。

「古代の子供たちはどんな生活をしていたのかしら?」

少し調べてみましょう。

古代ローマの出産はまさに命がけの危険な行為注1でした。

椅子に腰掛けた状態で子供を産み落とすのです。

下方では産婆が新生児を受け止めて、無事に出てきた新生児を大きなたらいで洗います。

そしてついに、生まれたばかりの赤ちゃんに最大の試練の瞬間が訪れます。家の地面に寝かされた我が子、それを見た父親がその子供を育てるかどうか見定めるのです。父親が我が子を養育することを認めると、男の子であれば抱き上げ子供の権利を定め、母や乳母に授乳させて大事に育てます。女の子の場合は、ただ単に育てるようにとそっけなく言うのみです。

赤ちゃんは放棄されることもありました。貧しくて育てられない、子供が多すぎて十分な教育を授けてやれない、財産が大勢の子供に分割されるのを避けるため、などの理由から新生児を家の戸外やゴミ捨て場に放置する、もっと残酷なことに窒息死させるあるいは餓死させるといったことも行われました。虚弱児、身体や知的障害を持った子供も同様に扱われました。このような措置に関してセネカは「育てる価値がある者とない者を分ける必要がある」と淡々と説明しています。古代ローマ人の考え方の一端が窺える一文です。

現代から見るととても恐ろしい考え方です。

とはいえ、お腹を痛めて生んだ我が子が大事なのが母親です。たとえ父親に拒否されようとも、何とかして子供を守ろうとする母もいました。

戸外やごみ置き場に捨てられた我が子を、父親に分からないようにそっと戻して信頼できる人や使用人に預けて養育を託したのです。

そのような境遇の子供は大きくなると養育者の奴隷という身分になりましたが、本来の自由民の出自を公にすることができるチャンスに恵まれることもあったのです。

この残酷な風習は第24代皇帝アレクサンデル・セウェルス(紀元後208-235)の時代に、嬰児遺棄は犯罪であると考えられるようになるまで続きました。

さあ、無事に生家で育てられた子供たち。

子供のへの授乳期間は約3年間、窮屈な服を着せられ、冷たい水(健康に良いと考えられていました)のお風呂に入る毎日です。

彼らにとって両親が最初の教師になります。母親は子供たちを愛情深くも厳しく育て、父親は子供たちの身体の成長や将来に気を配ります。

父親は泳ぎ、乗馬、戦いの方法を教えます。また読み書きも教え、ローマで生活する上で守るべき法についても教えます。

貴族の子供たちには paedagogus と呼ばれるきちんとした教育を受けた奴隷がお付になって、子供達が行くところはどこでも付き従っていきます。

6歳になると小学校のようなところ( ludi magister )に通い始めます。

学校の先生は現代と違って大きな教室で教えるのではなく、先生用の椅子と、スツール&腰掛けが備え付けられただけの小さな部屋で教えていました。授業は毎日お昼休みを挟んで6時間、祝日と9日毎にお休みの日がありました。年間の授業は3月から(ミネルヴァに捧げられたお祭りが終わった後から)始まり8ヶ月間続きます。その間夏休みはありません。

子供たちは trittico と呼ばれる蠟を塗った三つ折の書字板を使って学校で読み書き、計算を教わります。この書字板は現在の本のように扱われました。

また先生の指導はとても厳しく、言うことを聞かない生徒には鞭や木のへらがビシビシ降り注ぎました。

12歳になると男の子は次の段階に進みます。中近東やギリシアからやってきた先生が子供たちに文法を教えます。このように文法を教わるようになって初めてギリシア語やラテン語を言語として学習し、ギリシア文学やラテン文学、地理、物理、天文学を学びます。

一方女の子は、この年齢になると大人になったと考えられます。そして糸紡ぎ、機織り、家事奴隷の監督といった主婦としての仕事を覚えさせられました。

より裕福な家の子供たちはこういった勉強のために学校に行く必要はありません。家庭教師を雇うことができましたし、さらにこのような教育を行える奴隷を買うこともできたからです。先生はほぼ全員ギリシア人で、高度な教育を受けた人々でした。教え方を幾通りも知っていたため、彼らの授業は学校より質が良かったと思われます。

たとえば、一人の先生はアルファベット型の小さな焼き菓子を作らせて、子供の注意を引くように工夫しました。またある先生は奴隷の首全員にアルファベットを書いた大きなカードをかけさせました。こうすれば子供が庭にいるだけで次々と通るアルファベットを見て覚えるというわけです。

裕福な家に雇われた家庭教師は完全な教育を子供たちに授けることを約束し、またこうした家では女性も男性と同じ教育を受けることができました。

17歳を過ぎるとさらに上の学校に入ります。この学校に進むのは、政治家や弁護士業を志す者だけでした。そこではギリシアやラテンの雄弁家に師事する修辞学の先生が生徒たちに、「たやすく」「上手に」話す技術を教えました。元老院や広場で話すように模擬ディスカッションも授業の中で行われていました。

ローマで修辞学が重要視された背景には古代ギリシアのソフィスト(詭弁家)の存在があります。

彼らは街から街へと報酬をもらって渡り歩き、政治に関係していく貴族の師弟たちに、「効果的に自身の考えを表明する」技術を教えていました。

このようなギリシアの影響があり、ローマの若者の教育の総仕上げは旅でした。旅とはいっても何年も様々な街、アテネ、ペルガマ(現トルコにある古代都市)、ロードス島、アレクサンドリア(現エジプト)に滞在して、哲学や地理、天文学、物理の先生について勉強の総仕上げをしたのです。これらの街が好まれたのは、優秀な学者が数多くいたため、ローマより先生を見つけやすかったためでした。とはいえ若者にとって最も楽しみなことは詩を朗読する競技で優勝することでした。

話は変わりますが、暴君として名高い皇帝ネロもアテネで芸事に現を抜かし、幾つもの競技に出場し優勝しました(出来レースだったといわれています)。死後キリスト教徒によって大きく歪められたネロの歴史像ですが、彼自身は自分のことを皇帝というよりも芸術家と自認していました。

いずれにせよ、こうして若者たちは教育を終え、それぞれの野望を胸に仕事に就いたのです。

 

注1 例えば、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の娘ユリアはポンペイウスとの子供を出産中に子供と共に亡くなりました。亡くなった時の年齢はまだとても若く、ユリアの死後カエサルとポンペイウスの同盟関係は壊れ、カエサルと敵対したポンペイウスは前48年エジプトで殺されました。

 

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