Accademia Italiana

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唐木 麻美 )

眩い光と深い闇を生きた女性② ~カトリーヌ・ド・メディシス~

前回述べたようにカトリーヌ・ド・メディチは1536年アンリ2世と結婚しました。

フランス側としては法王との関係強化、及びメディチ家の莫大な持参金が目的でした。結婚後法王がすぐに亡くなり当てが外れましたが、莫大な持参金で国庫は潤いました。

そして結婚から2年たちましたが、カトリーヌとアンリにはまだ子供がありません。

カトリーヌは離婚される危機にありました。そこに思いがけず夫アンリと彼の愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエ(カトリーヌ・ド・メディチの従姉妹)の支援を受け、カトリーヌは10人の子供を出産し、結婚8年目にしてようやく世継ぎを生むという役割を立派にこなすことができたのです。

乳幼児の死亡率が現代と比べて圧倒的に高かった時代ですが、そのうち7人が幼児期を乗り越えることができました。

ところでディアーヌ・ド・ポワチエという女性はアンリ2世が結婚前から心をささげていた人でしたが、残されている肖像画から絶世の美女であったことが分かります。衰えを知らない彼女の美貌の秘訣は早寝早起きと乳製品を好んだこと、また高貴な女性としては珍しく戸外での運動を好んだことにあったようです。またディアーヌは知性に優れ、アンリの治世を助けました。こうして単なる愛妾という地位にとどまらず、ありとあらゆる名誉はディアーヌにささげられました。

アンリ2世の生存中カトリーヌは常に日陰に甘んじ、宮廷内に居場所はありませんでした注1

1599年6月30日、エリザベッタ(モンゴムリ伯の娘)とスペイン王フェリペ2世の結婚を祝って催された馬上槍試合でアンリ2世はガブリエル・ド・モンゴムリ伯と対戦し、その時目に負った傷がもとで手当ての甲斐なく1559年7月10日亡くなりました。

ようやくカトリーヌ・ド・メディチは政治の桧舞台に登場します。

彼女は男子5人、女子5人の子供をもうけていましたので、第一子フランソワ2世が15歳で王座につきました。カトリーヌはまだ若い息子たちの摂政としてフランスを約30年間統治することになります。

この時代、フランス国内ではカトリックとユグノー(プロテスタント)との宗教戦争が激しさを増し、国外ではスペインのフェリペ2世とやエリザベス1世の統治下で勢いを増すイギリスとの戦争に明け暮れていました。さらにまた、女性の相続を禁止しているサリカ法典注②がいまだ有効な土地において、なお一層悪いことにカトリーヌは外国人であり、そして王家の血筋ではないということで難しい状況におかれていたのです。

さて、摂政になったカトリーヌにとって第一の心配事は息子フランソワ2世の健康でした。フランソワ2世は生まれつき持病を持っていたからです。またフランソワ2世の妻はスコットランド女王メアリ・スチュワートで、彼女と親戚関係注3にあったギーズ公を中心としたカトリック派とプロテスタント派との平和を保つため、カトリーヌは常に両天秤をかけざるを得ませんでした。

両者の和解を試みるも、1560年のアンボワーズの陰謀(プロテスタント派がギーズ公の影響下にあるフランソワ2世を誘拐しようとして失敗した事件)を発端として、信仰の自由をかけた血なまぐさい宗教戦争注4が勃発しました。さらに同年フランソワ2世が亡くなり、10歳にも満たない第5子のカルロ・マッシミリアーノがシャルル9世として即位しました。

こうしてカトリーヌの政治的重要性が一層増したのでした。

この時期、カトリーヌは「王国内に調和をもたらすことが統治者の神聖な義務である」とする新プラトン主義的傾向にあったエラスムス思想に傾倒し、政治家ミシェル・ド・ロピタルを書記官に任命してカトリックとプロテスタントの平和を保つことに全精力を注いでいました。 

1562年1月17日、カトリーヌが望んだサン・ジェルマン・アン・レーの勅令において、カトリック王国内でのユグノー派の貴族に一定の制限を設けた上で信教の自由が保障されました。

カトリーヌとロピタルによると、ユグノーはこの地上において倒すべき悪ではなく、人類が原罪を理解するために神が使わした改宗した代理人であり、王国を脅かしつつある暴力に人々が走らないようにすることが政治を司る人々の責務であると考えていました。

この試みにユグノー、カトリック双方は満足せず、1562年ギーズ公がユグノーに対して行った「ヴァシーの大虐殺」を皮切りにユグノーとカトリックの最初の宗教戦争が始まりました。

1563年3月カトリーヌが仲介し、アンボワーズ勅令が発せられ、条件付の信教の自由が保障されました。しかしながらこれに対してもユグノー、カトリック双方から不満が噴出しました。同年シャルル9世は成人に達し、カトリーヌは摂政の地位を退きましたが、シャルル9世は直ちに彼女がそれまで行使していた権力を認めました。そしてこの頃カトリーヌは王国を立て直すことに着手しました。

1564年、カトリーヌは「政府と宮廷のために」と題した手紙をシャルル9世にしたためます。そこには王国を統治する者の義務と統治の方法についての助言が記されていました。

さらに1564年2月から3月にかけてフォンテーヌブローで大きな宴会を催し、国民に若き統治者を知らしめるために1566年までの28ヶ月もの間シャルル9世とフランス中を旅しました。

1567年、束の間の平和が終わり、宗教戦争が再燃します。寛容政策は機能せず、カトリーヌの声は大勢の声に次第にかき消されていきました。

1568年、ついにロピタルは宮廷を去り、カトリーヌはカトリック陣営に戻りました。

1570年、カトリーヌはユグノー派にサン・ジェルマン・アン・レーで取り交わした協定を受け入れるように圧力をかけるのでした。

カトリーヌにとって心配なことは、ユグノー派の存在が宮廷で日に日に増していること、ユグノー派の頭目コリニー提督が彼を崇拝するシャルル9世に及ぼす影響力です。このコリニー提督のもとに不満を抱く貴族たちの恨みが集中していました。

カトリーヌは再び両派の調停を試みます。今回は娘のマルグリットとユグノー派のナヴァール王アンリ・ド・ブルボンを結婚させるという苦肉の策を使って。

しかカトリーヌの目指した方向とは正反対に、結婚のためにパリに来ていたユグノーの主要人物たちはカトリックの強硬派たちによって殺される運命にありました。

1572年8月24日から25日にかけての夜、サン・バルテルミーの虐殺が起こりました。

宿屋にいたコリニー提督が殺されたのを皮切りに男女問わず、子供まで無数の人々がパリのみならずフランス中で虐殺されました。当時の記録に目を通すと、そのあまりの残虐さに心底震えが走るほど恐ろしく、あまりのおぞましさに忘れることもできないほどです。

この虐殺の背後に誰がいたのか、はっきりしたことは分かっていません。カトリーヌが影で指揮したという説が通説になっていますが、そのような証拠もありません。虐殺を煽ったのはカトリック派の領袖ギーズ公アンリだったのでしょう。

でも命令は誰が?まだ未熟な若い王が見境もなく下した命令だったのでしょうか?あるいは極度の緊張が生んだ集団ヒステリーの最悪の見本だったのでしょうか?

いずれにせよ2年後、病弱だったシャルル9世はこの世を去りました。

そしてカトリーヌの4男がアンリ3世として即位しました。

アンリ3世をカトリーヌは子供たちの中で一番可愛がったそうですが、最終的にアンリ3世はカトリーヌ的宥和政策による問題解決の道は選びませんでした。

宗教と権力争いの果てにアンリ3世は、強大な勢力を誇ったギーズ公アンリ及び親族数名を暗殺し、カトリーヌはそれを死の床で知ったということです。ギーズ公が殺されたことでフランスのカトリックはアンリ3世に反発し、アンリ3世はユグノーと手を結びました。

1589年1月5日、カトリーヌ病没。

1589年8月1日、アンリ3世は修道士ジャック・クレマンに襲われ、同日夜亡くなりました。こうしてヴァロワ朝は絶え、マルグリットの夫、ナヴァール王アンリがアンリ4世として王位につき、玉座はブルボン王朝に明け渡されたのです。

カトリーヌの歴史的評価は現在でも揺れています。偉大な統治者、虐殺を指揮したかもしれない恐ろしい魔女、いまだに彼女の評価は正反対に分かれます。

しかし、あの難しい時代、英邁闊達な祖父ロレンツォ・イル・マニーフィコ(「ロレンツォ豪華王」と日本語で表記されることが多いのですが、ロレンツォの人生からすると「偉大なロレンツォ」などの訳が良いのではないでしょうか。)の聡明さを受け継ぎ、血なまぐさい解決を好む当時のフランス宮廷にあって、イタリアのリナッシメント(ルネッサンス)的理性を駆使してなんとかヴァロワ朝の崩壊を食い止めようと戦った女性に歴史が正当な評価を下せる日がくるのでしょうか?

最後に、カトリーヌがライバルであったディアーヌ・ド・ポワチエをアンリ2世の死後どのように遇したのか記したいと思います。

1513年から1521年にかけて銀行家 Thomas Bohier によって建設されたシュノンソー城は rinascimento (ルネッサンス)期に建てられた最も美しい城の一つです。1533年 Thomas の子供 Antoine は父の負債を払うためにフランソワ1世に泣く泣くこの城を譲り渡し、フランソワ1世はシュノンソー城を狩猟用の館として使用しました。シュノンソー城の庭には、ディアーヌの庭とカトリーヌの庭が向かい合って位置しています。未だにライバル関係にあることを想起させるような配置ですが、1599年アンリ2世が亡くなるとカトリーヌはディアーヌにシュノンソー城とショーモン城を交換するよう迫りました。ディアーヌはショーモン城に短期間滞在し、その後ウール・エ・ロワール県のアネにある自身の城に移り7年後平穏のうちに亡くなりました注5

歴史上、パトロンを失った寵姫の末路は悲惨なことが多いものです。カトリーヌもディアーヌのことを決して快く思っていたわけではありません。でも人命が現代と比べてなんとも軽いあの時代に、アンリ2世死後のディアーヌの処遇は存外な温かみを感じさせます。カトリーヌは一女性として、たとえ一時は権勢を誇ったとしても君主の死や気まぐれでいとも簡単に翻弄される女性の運命の儚さを思ったのかもしれません。

そして何よりも、カトリーヌはリナッシメント(ルネッサンス)時代のイタリア的精神、血なまぐさい暴力と並存する合理的で理性的な精神の持ち主であったのではないでしょう。カトリーヌにとってディアーヌはもはやライバルではなく、歴史の桧舞台から退場する哀れな女性にこれ以上鞭打つ必要はなかったのでしょうか。

史実を見る限り、カトリーヌのイタリア的強靭な理性は、残念ながら子供たちには受け継がれなかったようです。

もしカトリーヌがいなかったら、フランスの宗教戦争はまったく違った形になったのかもしれません。

カトリーヌの遺骸は現在サン・ドノ大聖堂に夫アンリ2世と並んで安置されています。

 

注1 アンリ2世はヴァロワ朝フランソワ1世の第二子で、結婚当初は王太子の立場ではありませんでした。さらにカトリーヌの結婚後ほどなくして後ろ盾の法王を亡くしたため、フランス宮廷でのカトリーヌの立場は一層厳しく不安定なものとなったのです。

注2 サリカ法典はフランク王国メロヴィング王朝の王クローヴィウス(後465年-511年)の晩年に成立したとされる法典。女性の土地相続を否定しているため、フランスではこれを拡大解釈し女性の王位継承権を廃止した。8世紀の写本が今日に残されています。

注3 クロード・ド・ギーズ公(クロード・ド・ロレーヌ)の娘メアリ・ド・ギーズはスコットランド王ジェームズ5世に嫁ぎ、メアリ・ド・スチュワートが生まれました。すなわちギーズ公はメアリの祖父にあたります。

注4 宗教戦争は1562年から1598年の間吹き荒れましたが、その前哨戦がアンボワーズの陰謀といわれています。

注5 最近発見されたディアーヌの遺骸から、ジエチルエーテルに塩化金を溶かした「金のエリクサー」を摂取したことによる中毒死であったことが判明しました。「金のエリクサー」とは若さを保つ不老長寿の霊薬とされています。

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