Accademia Italiana

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唐木 麻美 )

眩い光と深い闇を生きた女性① ~カトリーヌ・ド・メディシス~

フィレンツェを歩くと必ず目にするものがあります。かの有名な Medici メディチ家の紋章、数個の丸薬注1を表した紋章です。

メディチ家なしには花の都フィレンツエは存在しなかったでしょう。今、みんなが目にするメディチ由来のフィレンツェの文化財は、最後のメディチ家当主であり絶世の美女であった Anna  Maria Luisa de' Medici (1667- 1743)の勇気ある決断のおかげです。彼女は遺言で、死後財産の全てをフィレンツェから動かさないことを条件にフィレンツェ市に譲りました。この遺言がなければフィレンツェの文化財はナポレオンによってパリに持ち帰られてしまったかもしれません。

連綿と続いたメディチ家は、穏やかで控えめな人柄で街中の人から愛された銀行家 Giovanni di Bicci de' Medici (1360 - 1429) が築いた富から始まり、精力的で大変有能な商人でもあった息子 Cosimo il Vecchio注2 (1389- 1464) が引継ぎ、その孫である Rinascimento注3 (リナッシメントと呼びます。ルネッサンスのこと)の偉大な政治家 Lorenzo il Magnifico (1449- 1492) の下でフィレンツェは花の都として開花しました。

こうして繁栄を謳歌したメディチ家ですが、その長い歴史の中でフィレンツェを追放されたことも数回あります。最終的にフィレンツェは共和制の都市国家から大公国になり、メディチ家はフィレンツェ大公としてフィレンツェに帰還しました。初代大公は Rinascimento 筆頭の英雄 Giovanni di Giovanni de' Medici注4 (通称 Givanni delle Bande Nere 「黒隊のジョヴァンニ」 1498- 1526 ) の息子 Cosimo I (コジモ一世)で、その後1691年に前述の Anna Maria Luisa de' Medici が死ぬまで続きました。

さて、前置きが長くなりました。

フランス語名、カトリーヌ・ド・メディシス (Caterina Maria Romola di Lorenzo de' Medici) は 1519年4月13日フィレンツェに生まれました。両親は彼女の生後数ヶ月で病死し、孤児になったカトリーヌは数人の叔母と叔父の法王レオ10十世(1475- 1521)の庇護の下で育てられます。

法王レオ10世もメディチ家出身とはいえ、本家のメディチ家の後継者はこのカトリーヌただ一人でした。1523年にはもう一人の叔父が法王(クレメンテ7世)に選出されました。1529年、カトリーヌが8歳のときにフィレンツェ市民の人質になり、法王軍がフィレンツェを包囲するという事態になりました。人質になっている間、幼いカトリーヌは過酷な緊張状態を生き延びたのですが、彼女は生まれたときから複雑に錯綜する政治の駒の一つであり、終生このような残酷な政治の世界で生きることになります。

またローマに行く前の一時期を修道院で過ごし、その後はローマで法王クレメンテ7世の保護の下大変行き届いた教育を受けました。

法王とフランスのフランソワ一世(ヴァロワ朝)が同盟を結んでいたことから、カトリーヌはフランソワ一世の第二子アンリと結婚することになりました。政治が決定する結婚には恋のキューピッドは介在しません。

フランス側にとって重要なのは、王国の負債を一気に帳消しに出来るほどの莫大な持参金が結婚によってフランスにもたらされるということです。

こうして1533年9月5日、カトリーヌとアンリ二世の結婚式は盛大に執り行われました。

しかしながら結婚の翌年に法王が亡くなり、フランス側にとって同盟関係は事実上価値がなくなりました。

確かに政治的な意味ではカトリーヌとの結婚は持参金を除いて当て外れだったのかもしれませんが、文化的にはまったく違います。

たとえば香水を付けるという習慣はカトリーヌが広めたものです。体を洗うことにあまり興味が無かった夫アンリ二世が発散する悪臭に耐え切れなかったのでしょう。カトリーヌが使っていた香水はドイツのケルン(Colonia = フランス語 Cologne)から輸入したものだったので、以来香水の名称は acqua di Colonia (ケルンの水、とうい意味。フランス語 eau de Cologne オー・デ・コロン)になりました。

また現在のフランス料理の基礎は、実は大美食家だったカトリーヌに従ってフランスにやって来た料理人たちが築いたのです。

数々のソース、もつ料理、オリーブオイル、クレスペッラ(クレープ)、ほうれん草、インゲン豆、えんどう豆、アーティチョーク(チョウセンアザミ)、オレンジで味付けする鳥料理、その他たくさんの料理がフランス料理の基礎になりました。

イタリアから来た料理人や菓子職人が学校を開き、フランス人にトスカーナの料理を教えるようになったからです。

フランスの天文学者ニコラ・カミーユ・フラマリオンはこう述べました。「アンリ二世とカトリーヌ・ド・メディシスの結婚で付き従ってフランスにきたイタリアの料理人たちがフランス料理の起源だと認めなければならない、素材や味付け、彼らがもたらしたものは我々(フランス人)にとって初めてのものだった。」

食事のメニューも豊かになり、それとともにナイフのみを使用していたテーブルマナーも向上し現在のフランス料理のマナーの中核をなすようになりました。

ではカトリーヌがフランスにもたらした代表的な料理を一つご紹介します。

ベシャメルソースは17世紀ルイ14世の侍従であったフランス人 Luois de Bechamel 侯爵が考案したと伝えられています。でも実はカトリーヌ・ド・メディチと一緒にフランスにもたらされたものでした。

{Salsa Bechamel の材料・作り方}

牛乳 1リットル

小麦粉 4さじ(100g)

バター 4さじ(100g)

挽いたナツメグ、塩、こしょう

牛乳と小麦粉をフォークで塊ができないように混ぜて、そこにナツメグ、塩、こしょうを加えます。それをバターを塗ったキャセロールに入れて弱火にかけ、木のさじでかき混ぜながら煮ます(かき混ぜる手を止めないこと!) 3分煮てソースが煮詰まったら準備万端です!

では次に出来上がったソースを使って一品作ってみましょう。

{Papero al melarancio 若ガチョウのオレンジ煮}

この料理はカトリーヌが催した宴会で大変好評を博しました。

フランス人コックたちが若いガチョウを王宮内で飼育されていた鴨に変えて、Melarancio(オレンジの一種) からオレンジに替えました。またこの料理にトスカーナでは脂をかけましたが、それをコニャックに変えて「鴨のオレンジ煮」という名前をつけたのです。

さて、このように文化面でのカトリーヌの貢献は抜群でしたが、結婚生活は数多くの子供に恵まれたことを除いて、幸せなものではありませんでした。

次回はアンリ二世の死後、政治の檜舞台に登場するカトリーヌを見て行きたいと思います。

 

注1 メディチ家の紋章の由来については諸説ありますが、Medici (医師あるいは薬の意味の名詞)の名が示すように Medici 家の祖先は薬売りなど医療関係の仕事に従事していたと思われます。紋章は家業に関係することが多いので、紋章の丸い玉は丸薬を模したものと解釈することが一般的です。

注2 Cosimo il Vecchio は一族の他の Cosimo と区別するために il Vecchio (「古い、この場合には年寄りのという意味」)を Cosimo の後に付けます。

注3 日本で定着しているルネッサンスという言葉はフランス語で、ルネッサンス時代の主役であるイタリアではその時代を Rinascimento (「再生」の意味)と言います。リナッシメントと呼びます。

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